場面緘黙と、これから

場面緘黙症だった頃の記録を綴っています。

努力って?

人とうまくコミュニケーションがとれないことに悩んでいた時に、親から言われた言葉があります。

「人と話せるようになるために、どんな努力した?努力してる?」

当時、高校を卒業し、スーパーでアルバイトをしていました。
学校で人並みに話せなかった自分には、社会人として基本とされる挨拶や返事、ホウレンソウをすることすら、うまくできずにいました。
それでも毎日自分なりに、どうしたら上手くできるようになるのか?試行錯誤しながら働いていました。

それまでろくに人と関わらずにいた自分が、毎日アルバイトして人と関わっていることだけでも、凄くエネルギーのいることで、私なりに努力していると思っていました。

だけど…
母からすれば、そんなのは努力しているとは言えないよう。
「努力が足りないんじゃない?」と言いたげなその口調に、努力って何なんだろう?と思いました。

「結局、結果を出せなければ努力したと認めてもらえないのか」

母の言葉だけではなく、その後関わった人から言われた言葉や就活等を通して、そんなふうに思うようになりました。

"努力って、得たいが知れないんです。何時間、どんな作業をすればそれは「努力」になるのか。効果がなければその「努力」は「無駄」になるのかもしれないのに、そんなギャンブルみたいな努力に全身全霊を賭けろと言われても…。という感じが、私はしてしまいます。"

最近読んだ本『真面目に生きるって損ですか?/雨宮まみ』から。
この部分が非常に良くわかります。
自分がずっと思ってきて、でも言葉で言い表せなかった気持ちを言語化してくれているように思いました。

"苦い失敗を振り返るのはつらいですが、「努力が足りなかった」なんてぼんやりした言葉で通り過ぎてしまうより、どこがまずかったか掘り起こして検証したほうが、ずっとたくさん得られるものがあります。"

"努力が足りないことよりも、努力という言葉でごまかされる何かのほうを、おそれたほうがいいのではないか、と思うのです。"

「努力」という言葉に、追いつめられたとき、この文章を見返したいなと思います。