場面緘黙と、これから

場面緘黙症だった頃の記録を綴っています。

夏がきて思い出したこと

最近は本当に暑くなってきましたね。
私は寒さに弱いので、冬は苦手だけど夏は好きです。

日の当たる時間帯が長くて、青空が広がるから気持ちも明るくなる。
夏は自分の誕生月なこともあって、好きな季節なんですけど、緘黙が酷かったときは夏が辛かったです。

なぜかって、緘動で給食を食べられず水を飲むことさえできずにいたから。
休み時間にみんな水筒やペットボトルに入った飲み物を飲んでいても、私は鞄から水筒を取り出すことすらできずにいました。

水筒は鞄の中に入っていたのですが、飲み物を飲んでいる姿を見られるのが嫌だったんです。
誰も見てないし(自意識過剰)、喉乾いてるのに飲み物飲まないって修行でもしているのか?ってツッコミたくなりますが、緘黙が酷かったときはできなかったんですよね。

猛暑の中、水分をとらずにいたらどうなるか?
1度だけ熱中症になってぶっ倒れました。
あれだけ水分をとらずにいて、倒れたのが1度だけですんだのは幸いです。

毎日、学校を出て同級生がいない道に入ったら、すぐに水筒を取り出して一気飲みしていました。
給食も食べられなかったので、家に帰ったら空腹でご飯をかきこんでいました。

まるで修行のようだった学校生活。
どうしてあそこまで、学校では自分の行動を抑えてしまったのかは分かりません。

緘黙だと人に助けを求めることができないし、困っていても気づいて貰えないことが多いです。
困っていてもそれが表面に表れなかったり、そもそも存在感が薄くて誰も気にかけていなかったりするので。

助けを求められないことで、最悪命を落とす可能性だってあるかもしれません。
私は学校にいたときに、熱中症で倒れたり、極度の緊張で過呼吸になったこともありました。
「苦しい。このままじゃ倒れる。誰かに助けを求めないと」そう思っても、できず、我慢した結果の出来事でした。

「話せないことの何が問題なの?
何か困ることあるの?」
緘黙について書かれたニュース記事に、そんなコメントがありました。

困ること、たくさんありますよ!!って言いたい。
話せることが当たり前の人にとって、話せない辛さを想像するのは難しいのでしょうね。

やりたいことや夢を諦めない

"現実というものは「これまでの人生」なんです。つまり、それは変えられない"過去"です。ぼくはそれまで飛行機とロケットの勉強をしていました。でも学校の勉強はほったらかしていました。そのせいでぼくは「将来、飛行機やロケットの仕事はできない」といわれたのです。
この変えることができない"過去"を見て、"未来"をあきらめろといわれてしまうと、(努力しても無駄だ)という気持ちになります。"

"今の自分を見て、未来の自分を決めない。"

植松努さんの著書『空想教室』から。
失礼ながら、この方のことは全くご存じなかったのですが、ネットサーフィンをしていたところ、植松努さんのブログに偶然辿り着きました。
ブログで書かれている植松努さんの考え方を読んで、とても励まされました。
そんなことから、植松努さんが植松電気という会社を立ち上げた方だと知り、この本を読むことにもつながりました。

学生時代、将来を考えるときに、私は「人と話せないこと」がハンデとなっていました。
それに加え、高卒後、アルバイトをするものの、長く続けることができずまともな職歴がないこともハンデとなりました。

それでも、やってみたいことや、夢はたくさんありました。

心理学を勉強したい。
海外に行きたい。
スポーツをやりたい。
メイクが好きだから、メイクについて勉強したい。
服も好きだからショップの店員という仕事もしてみたい。
特殊学級に在籍していた過去から、障がい者支援に関わる仕事に就きたいなんてことも思っていました。

でも、どれも「バイトすら続けられない今の状態じゃ、できないじゃん」「話せないままだったら、心理学やメイクの勉強したところで、それを活かすことができないし、無駄じゃないか」と思うことがありました。

でもその反面、「緘黙を理由にしてやりたいことを諦めるのは嫌だ」という気持ちもありました。

上記に書いたやりたいことや夢は、達成できたもののもあれば、未だできていないものもあります。
1つできないことがあっても、何もできないわけじゃないのです。
私の場合、コミュニケーションについては不得意だけど、それ以外のことはソコソコにできることが分かっています。

例えば、家事や勉強、パソコンを扱うこと、本をたくさん読めること…。
すごくできるわけじゃない。まあまあできる。不得意ではない。そんなレベル。
どれもたいしたことないと言われるかもしれないけど、家事ができれば生活ができます。
勉強ができれば知識を身につけることができます。
パソコンを扱えれば、パソコンを使う仕事をすることができます。

できない部分や自分の過去を見て、夢を諦めるのは勿体ない。できない言い訳をして、やりたいことを諦めていれば、人生を楽しむこともできないと思います。
思い描く夢そのものが実現するかどうかは未知数だけど、「どうせ無理だ」と諦めなければ、夢や理想に近づくことくらいはできると思うのです。

"自信はお金では買えません。いばっても手に入りません。ひとりきりで守って守れるものでもありません。自信を身につけるには、「やったことがないことをやる」しかないのです。
だからこれから先、やるかどうかで迷ったときは「できるか、できないか」ではなく、「やりたいか、やりたくないか」で選んでください。"

努力って?

人とうまくコミュニケーションがとれないことに悩んでいた時に、親から言われた言葉があります。

「人と話せるようになるために、どんな努力した?努力してる?」

当時、高校を卒業し、スーパーでアルバイトをしていました。
学校で人並みに話せなかった自分には、社会人として基本とされる挨拶や返事、ホウレンソウをすることすら、うまくできずにいました。
それでも毎日自分なりに、どうしたら上手くできるようになるのか?試行錯誤しながら働いていました。

それまでろくに人と関わらずにいた自分が、毎日アルバイトして人と関わっていることだけでも、凄くエネルギーのいることで、私なりに努力していると思っていました。

だけど…
母からすれば、そんなのは努力しているとは言えないよう。
「努力が足りないんじゃない?」と言いたげなその口調に、努力って何なんだろう?と思いました。

「結局、結果を出せなければ努力したと認めてもらえないのか」

母の言葉だけではなく、その後関わった人から言われた言葉や就活等を通して、そんなふうに思うようになりました。

"努力って、得たいが知れないんです。何時間、どんな作業をすればそれは「努力」になるのか。効果がなければその「努力」は「無駄」になるのかもしれないのに、そんなギャンブルみたいな努力に全身全霊を賭けろと言われても…。という感じが、私はしてしまいます。"

最近読んだ本『真面目に生きるって損ですか?/雨宮まみ』から。
この部分が非常に良くわかります。
自分がずっと思ってきて、でも言葉で言い表せなかった気持ちを言語化してくれているように思いました。

"苦い失敗を振り返るのはつらいですが、「努力が足りなかった」なんてぼんやりした言葉で通り過ぎてしまうより、どこがまずかったか掘り起こして検証したほうが、ずっとたくさん得られるものがあります。"

"努力が足りないことよりも、努力という言葉でごまかされる何かのほうを、おそれたほうがいいのではないか、と思うのです。"

「努力」という言葉に、追いつめられたとき、この文章を見返したいなと思います。

ぼやき

1番苦手というか、キツい言葉で言うと大嫌いなタイプの人間がいます。

それは「弱いものにあたる人」

男性が女性に対して暴行する事件はよく聞くけど、その逆は殆ど聞かない。
自分のストレスを発散する対象として、自分より力が弱く抵抗される恐れのない人(女性や子ども)は最適なのでしょう。

男女関係なく、自分より弱い立場の人や強く出られない性格の人に対してあたる人は多い。
緘黙で話せなかった私は、そういう人から目をつけられることが多かった。

「弱いものにあたる人」と書きましたが、1番弱者なのは"あたられる人"ではなく"あたる人"だと思います。

自分より弱いものへの対応で、その人の本性が分かると思っています。
弱者にあたる人は、幸せな人ではないことは確か。
言ってしまえば、可哀想な人です。

そういう人への強い嫌悪感は拭えません。
緘黙脱したて時代は、そういう人に出くわす度に、心の中で「なめんじゃねえよ!」と猛烈にいきり立っていました。
「なめられたくない」という意識が強くなり、外では虚勢をはるようになっていきました。

やられっぱなし、言われっぱなしだった過去の記憶が思い出され、非常に怒りっぽくなっていました。思うと、なめてきた人より、抵抗できずなめられるような自分に対して1番腹を立てていたのかも…。

言葉に詰まる

緘黙の後遺症なのか、今でも人と話すときにすぐに言葉がでてこないことがあります。

頭の回転が鈍くなるのか、相手の言った言葉がすぐ頭に入ってこないときがあります。

相手の言ったことを理解するまでに、時間がかかってしまう。
その後、「どう答えるか」を考える(これも話す経験が不足しているため瞬時に返す言葉が思い浮かばない)から、返事が普通の人より遅くなってしまう。

もしくは、早く答えないと!という焦りから言葉が頭の中でまとまっていない内に話してしまい、相手にきちんと伝わらないこともある。しかもそういう時はタドタドしい話し方になってしまうから、年相応の会話力がない自分が恥ずかしくなる。

でもこの症状はリラックスした状態(家族と話すとき)では、全くない。
だから緊張していることが原因のように思います。

言葉に詰まるときの対策として、頭のなかに返事マニュアルを作っていました。
こう聞かれたら、こう答える!というのを、考えておくんです。

返事は、身近にいる人達の真似をしました。
特に話上手で好印象をもたれている人の言い方を真似するようにしていました。

返答マニュアルを作っておくと、言葉に詰まることがマシになったように思います。
常々思うのは、言葉の言い回しって難しいってこと。
伝える内容は同じでも、言い方1つで誤解を生んでしまうこともあるんですよね。
話すことは相変わらず苦手だけど、それでも試行錯誤しながら少しずつ慣れていくしかないのかなと思います。

まさかの再会

先日、久しぶりに地元に帰って親と食事をしたのですが、その時に懐かしい人と再会しました。

保育園時代、担任だった先生です。
偶然レストランで会って先生から声をかけてくれました。

保育園にいたのはもう何十年も前のことで、保育園での先生とのやりとりは殆ど覚えていません。
だけど、ハッキリ思い出せるのは小学生になってから友達の兄弟がいる保育園を覗きに行ったときに先生と会ったことです。
「大きくなったね~!」と言って、当時背が高くて決して小柄でなかった私を抱っこしてくれました(重かっただろうなあ…)。

あれから何十年と経って他にもたくさん子どもを受け持っていただろうに、自分のことを覚えていてくれて顔を見て気づいてくれたのが驚きで、嬉しかったです。

たまたま地元に戻ったときに行ったレストランで再会って、ものすごい偶然だなあと思いました。
思いもよらぬ再会、心が和みました。

自尊心の低さと摂食障害

中学生のときに摂食障害になって、その後は良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。

退院後は倒れる寸前の状態になるまで悪化することはなかったけど、極端な体重の増減を繰り返していました。

その状態がようやく落ち着き、痩せていないとダメ思考から解放され食事を楽しむことができるようになったのは最近です。

摂食障害の症状があった当時は、自分のことが大嫌いでした。
性格も容姿も良いと思えるところなんてなく劣等感の塊でした。
自分には何も魅力がないから、せめて体型だけはスリムで綺麗にしていないといけない。そして何事にも地道にコツコツ真面目に取り組んで努力することくらいでしか評価されるポイントがないと思っていました。

人から「努力家だね」と褒められても「自分みたいな人間が努力すらしなかったら何の魅力もないじゃん」と思い、
「細くてスタイル良いよね~」と褒められれば「太ったら良いとは思わないんだろうな。やっぱり痩せていないとだめだ」と思い込んだり、

我ながらなんてめんどくさい人間(*_*)

「人からどう見られるか」といった他者の評価ばかり気にしていたので、少し否定的なことを言われるとそれだけで気持ちがグラグラ不安定に。
自分の気持ちを無視していたので常にストレスフルな状態だったと思います。

今も自尊心は低い方だと思いますが、前ほど辛さを感じなくなったのは自分の気持ちを優先できるようになったところが大きいと思います。
無理な頼み事をされたとき、前の自分なら「断ったら悪い」とか「これくらいの頼みを嫌と思うなんて自分は心が狭い」なんて考えて、無理して引き受けていました。
今は「嫌だな、ちょっとキツいな」と思ったら断ることができるようになりました。

自分の気持ちに正直に、ありふれた言葉だけど、"自分を大切に"できれば結果的に人にも優しくなれるのかなと思います。